2016年8月16日 (火)

終戦記念日。

終戦記念日。

本日、長年愛用してきたガラケーがお亡くなりになりました。
昨日までは元気だったのに、あまりにも突然すぎるお別れにただ狼狽えるばかり。

登録データは完全喪失。復旧不可能です。

ただ狼狽えていてもしかたがないので修理に持って行ってみましたが、古すぎる機種では修理も受け付けてはもらえず、保険を使って機種変更となるところだったのですが、そこでちょっとした問題が。
詳細はともかく、ガラケーからスマホに変更せざるおえない状況なのが、ひどく悲しい。

スマホじゃジーンズの後ろポケットにひょいと入れておくわけにはいかないじゃないか。
まぁ、しかたが無いのだけれど、妙に失意の底に沈んでおります。

こうなったら腰に掛けれる、スマホケースでも作ろうかしら。


と、久しぶりになんか書いてみましたが、ブログはまたしばらく放置になると思われます。
アドレス帳の復旧は自力では不可能なので、気が向いたらE、Cメールでも送っておいてやってください。

2015年5月24日 (日)

思いがけない収穫。

先週末は、個人的にも、世間的にも、非常に内容の濃い週末で、その余韻をまだひきずりつつ、まだ未来に続いていく予感を感じている。
記憶が薄れないうちに書き留めておきたい気もするが、そうする事で時の流れを止めてしまいそうな恐れも感じている。
記憶の奥底に埋没してしまう事がなければ、いずれ語る事もあるだろうか。

さて、そんな感慨にふけりつつ、国際美術館"高松次郎 作成の軌跡"をみてまいりました。
家を出る前、ついでに宝くじでも買ってくるかと、そちらの方がウエイトの高い感じで出かけたのですが、随分とあなどっていたようです。

コレクション展無しの、全館を使用した力の入れようですが、観覧者は少なく、場所によっては監視員のおねーさまと二人締め状態。
なんともったいない。

序盤、この年代の現代芸術かと、ややまゆを寄せつつ、なにがしかのとっかかりは無いかと隅々まで見てみるものの見つけられず。

途方にくれて歩を進めた先ではじけました。

影。

その主であるはずの実体を伴わない影だけが描かれた腕。
そこですっかり思考が止まりまして、その次に目を向けた先で、ぱんとはじけたように、とりとめのない物語のようなイメージが、考えるでも無く溢れ出して、いつまでもその中で遊んでいられそうな心地よさ。

ぐっと心を鷲掴みにされてしまったようです。

一度心を持っていかれた後は、もう何も考えず、遊園地でアトラクションを渡り歩くような気分で、視界に飛び込んで来るものに心をゆだねて会場内を一回り。
見終わった後は、遊び疲れた後の心地よい気だるさに包まれておりました。

が、キャプション不要な勢いで見ていたので、心にイメージは残っていても、頭に何も残って居ないので整理もつかず。それ以前に、はたから見てると夢遊病者かなにかのような様子に見られていたかもしれないな。。。

なににしても満喫。
終わるまでにもう一回足を運ぶ価値はありそうです。

2015年5月12日 (火)

お疲れ様なのでした。

先週末は、難波方面で不発弾の撤去作業があってばたばたしていたようだ。
不発弾処理なんて言葉も最近聞いていないなと思っていたりしましたが、70年が経った今でもまだ埋もれてるんだな。

そんな事があった翌日の日曜日。
おおよそ2か月間続いたPARASOPHIAが終了。
表から、やや裏からと色々遊ばせてもらった。

なりゆきと勢い参加したサポートスタッフの活動も、序盤はさぐりさぐりから。。。最終日まで、慣れはしたけれど、さぐりさぐりのまま終わった気がする。

最終日、シフトに入る前に”スタッフそれぞれの写真を撮ってます。一番好な作品の前で写真を撮りましょう。”なんて事を言われたので、数秒考えて”ヤン・ヴォー”にしようと答える。

まさかの、ヤン・ヴォー

美術館の中でも普段展示に使われたりする事も無く、壁などもただれたまま修復されることなく放置されている異質な空間。そこの床に無造作に置かれた粗末な木箱。ミカン箱といった言葉が一番適切にそれを表現する言葉のように思われるが、ミカン箱と聞いて木箱を連想できる人も随分減ってきているのかもしれない。ミカン箱の話はともかく、多くの人がそこに作品がある事に気付きもせず、邪魔な箱が置いてあるなといった様子で通り過ぎて行くのだけれど、箱の中に入っているのは、1,2世紀頃に掘られたアポロの胸像の一部で、噂によるとそれだけで4000万円はする代物だそうな。

作品の意図はよくわからないけれど、ひっそりこっそり感がちょっと素敵な一品なのでした。

さて、もう少し後の祭りがあるようだけれど、もう少し先にもそろそろ目を向けてみようか。

2015年5月 9日 (土)

逃げるなら今のうちだ。

猿の名前が変更なしと言う事で決まったようだ。
なぜそんな事でどたばたしているのか、わたしにはまったくわからないのだけれど、誰か教えてくれないか。

とそんな事とはまったく関係無く、あえて誤解してみよう。

京都文化博物館別館に現在展示されている。。。と言っても後二日なのだけれど、、”エルミタージュ1941-2014”と言う作品がある。

エルミタージュ美術館内の様子を写真におさめたもののようだけれど、少しおかしい。
観覧者が視線を向ける先には絵画が展示されているはずなのだけれど、そこには額縁があるばかりで、その中にあるはずのものが存在していない。

さて、これはいったい?

ふと思い出したのは、数年前に世間を騒がせた食品偽装騒動の事。
メニューに書かれているのと、実際に提供されていたのとが違っていたというあれですが、確か提供している側からの自己申告が発端で騒ぎになって居たような。
自己申告があるまでに、それを食していて違っている事に気付いた人はどの位居たんだろう?
気付くこと無くそれを食して満足を得ていた人達にとっては、メニューに書かれていた文字や、その場所で食している事に意味はあっても、食しているそのものにはたいした意味は無いと言えないだろうか?

美術館でそれと似たような事があったならばどうだろう?
本物だと思って見ていたものが、実はレプリカのようなものであったり、まったくの偽物だったりしたとして、そうだと気付く人はどのくらい居るんだろう?
そこで気付く事無く見ていた人達にとって、その作品が存在する意味とは?

いっそ、額縁だけで中身なんてなくたっていいんじゃない?

あぁ、なんて皮肉たっぷりな。。。

とガイドブックに目を通すと、その作品にそんな意図がさらさら無い事はすぐにわかるのだけれど、背景にあるストーリーをまったく知らないわたしが、自分の中にあるものを総動員して解釈しようとすると、そんなあさっての方向に話が飛んで行ってしまうんだといったお話。

誤解ではあるのだけれど、自分が興味、関心を持っている事柄や、もののとらえ方、考え方の再確認といった意味では有意義ではなかろうかとも思うのです。
どうでしょう?

実際の作品が意図するところは。。。と、書き始めると随分長くなりそうなのでパスしてしまいますが、それはそれで、そこから話を広げて行くと面白そうな話なので機会があればいずれ。。。

とは言え。。。まぁ、今日のところは眠るとしましょう。

2015年5月 8日 (金)

人目を忍んで。

京都市美術館内、大陳列室。
正面入口から入って、壁一枚向こうにその巨大な空間が広がっている。
戦後しばらくの間、GHQに接収され兵舎としてこの建物が使用されていた頃、この部屋は娯楽室になっており、バスケットボールのゴールなども設置されてていたのだとか。

現在、あと数日を残すのみとなったPARASOPHIAでは、蔡國強 (漢字は適当に似ているのをあてました。)の京都ダ・ヴィンチという展示が広がっている。

中央には、竹で出来た天井にまでとどきそうな巨大な塔がそびえ立ち、そこにはワークショップで子供達が作ったあれやこれやがぶら下げられている。
入口から見て、塔の手前には書店。塔の向こう側にはロボット達。
人気者のネズミもそこに居るのだけれど、人気者はネズミだけでは無い。

アーティストのパロディロボット達も大活躍で、ぽろっ君とわたしが勝手に呼んでいる、ジャクソン・ポロックのパロディロボットが描く絵は、描いている途中にもう売約済みの札がついてしまうようなありさま。

人気者のロボット達ではあるのだけれど、2か月間動き続けて来た疲労に耐え切れず、力尽きて動かなくなってしまったものもちらほら。

動かなくなってしまったわけでは無いけれど、ダミアン・ハーストロボもどうも動きがよろしくない。
「ケッ!俺はアーティストだぜ?それを、お絵かきロボットのように絵を書き続けさせやがって!やってられないぜ!」
なんて、言っているような気がする。

真夜中。人の姿が見えなくなった大陳列室の中でごそごそと動き始めたダミアン・ハーストロボが、動かなくなったネズミをホルムアルデヒドで固めて作品作りをしている姿を妄想して、にんまりせずには居られないわたくしなのでした。

2015年5月 7日 (木)

充電中。。。が夜更かししてしまった。。。これはいけない。

GW最終日。
すっかり気分はいけいけで三昧決め込んでもよかったのだけれど、身体はどうもそうらしくなさげのようなので、本日は充電日。
いよいよPARASOPHIAも次の週末で終了。パラロスとはよく言ったもので、それべったりな生活になっていた人達には、しばらく寂しさが残りそうです。

にしても、わたくし子供嫌いなはずなんですけど、どうしちゃったんでしょう。
がきんちょがはしゃいでるのを見てるのが楽しくてしかたない。
人気者のネズミと一緒に歩き回っていると、なにが気になるのかネズミでなくわたしを見ているがきんちょがちょいちょい現れる。見せ物はわたくしてせは無くネズミなんだけどなぁ。

そんな連休でございました。

さてそんな中、映像を中心としたインスタレーション作品での出来事。
雰囲気だと20歳まで後数年といった感じの若者が一人。お連れの方とやってきます。
どうやらお楽しみなようで、心に浮かんだ事をそのまま口にしているのかしらといった様子で、少しにぎやかな感じ。
その若者が先に進んで、沈黙の人々が視界に飛び込んで来ての一言。
「うわ静か!恥ずかしい。。。」
そこ普通に映像が面白いので、みんな見入ってしまっていて、人溜まりができているわりに話し声も無く、音楽だけが鳴り響いている状態になる事が多いのです。
そんなタイミングで来てしまったよう。
若者、その後急に静かになってしまいまして、その変わりように思わずふき出しそうになってしまいましたが、それをぐっと堪えながら心の中で、「恥ずかしがる事は無いんじゃないか?」と、つぶやいてみたのでありました。
「むしろ、若者よもっと語れ!」そんな感じ。そこで、わたしがそう口にしてしまうのもあれな気がするので、口にはしないのだけれど。

この場面での沈黙は、作品に夢中になっているようなのでいいんですけど、他で見ていると、沈黙が作品や自分の世界に夢中になってるんだか、”わけわからんなぁ”と悩んでるんだかわからない事が多々あるのです。
一応、わたくしとしてはヒント程度は提供できるようにネタ仕込んで待ち構えていたりするのだけれど、前者だと下手に話しかけても邪魔する事にもなりかねず、なかなかどこでどう話しかけようか悩ましい事が多々あって、声のかけどころが掴みきれないまま、そろそろ終わりを迎えようとしているわけだ。

まぁ、このまま最後までこれも寂しすぎるので、少し考えてみようじゃないか。

2015年5月 3日 (日)

目に見えている世界だけがすべてでも無かった。

言葉というものは、なんて危うい前提の上に成立しているものなんだろう。

GW本番に突入。
今日は”ミュージアム・アクセス・ビュー”の鑑賞ツアーに参加してまいりました。

とは?
さらっと勝手にコピペで持ってきますと。。。

■ミュージアム・アクセス・ビューとは?
目の見えない人/見えにくい人と「ことば」を使った鑑賞ツアーを行っています。作品を介してお互いに会話を楽しむことを目的としています。作品からのメッセージをさぐり、鑑賞を深め、またお互いの「見え方」「感じ方」の違いを発見し共有していきます。

と言う事で、視覚に難のある方を交えた少人数のグループに分かれて美術館のの中をまわって、お話しながら鑑賞しましょうといったツアーなのですが。。。

初めて参加してみて、まず、言葉ががらがらと音を立てて崩壊していきます。
もともとボキャブラリー豊富とも言い難いわたくしだったりするわけですが、もともと寂しい財布の中身を覗き込んでさてお支払といったところで、財布の中に入っているのが”円”でなく”ウォン”だとか”ルピー”にすり替わってしまっているのに気付いたような、なんとも言えない無力感。確かにそこにお金は入ってるんだけど、このお金ここじゃ使えないよね的ながっかり感。

そもそも言葉というのは共通の認識の上に成立していたりするわけですが、その認識そのものの多くが視覚によって得られた情報に基づいてのものだというのが生々しく感じられて、その言葉が持っている意味そのものが視覚を閉ざしてしまうと崩壊してしまうのです。
なんて事が頭の中をよぎると、喉もとで言葉が渋滞おこして表に出てこない。

例えば”猫”という言葉。
その鳴き声、大きさ、重さ、抱いた手触りと、そんなものは伝わっても、そのしぐさからくる可愛さのような見て感じるものは欠落しているとか、欠落している分その言葉から連想されるものの意味あいとしての比重が変わっていて、その言葉から感じられるもののニュアンスが不思議にずれてくるような、そんなもどなしさのような感じ。

ようやく少しその不思議な感じに慣れ始めてきた頃には、終わりの時間が迫っていて、なにも出来ないまま終わったような感じでございました。

少し終わった後話をさせてもらっていたのだけれど、目が見えなくなった時期、生まれた時からなのか、ある程度歳をとってからなのか、ある程度。。。であれば、その期間がどのくらいだったかによって、視覚を伴った経験からくる背景も違ってきて、、言葉のニュアンスのようなものは人それぞれに違ってくるとか。
頭で考えれば、そりゃそうだといったとこなんでしょうが、それを実感を伴ったものとして感じられたのはいい経験させてもらったなといった感じです。

にしても、言葉で伝えようとして何かを見ている時の集中力っはんぱじゃなく高まっていたようで、何度も同じものを見ていたはずなのに、新鮮に見れてちょっとしたお得感もあったのでした。

さぁ、GW。うん楽しもう。

2015年4月30日 (木)

路地の先になにがあるんだろ。

鳴りやまない拍手と、自然とわきあがるアンコールを求める手拍子。
その様子が、そのショーがどほど多くの人達の心をゆさぶったのかを物語っていたのでしょう。

わたしも、まさかアンコールは無いよね?と思いつつも、その手拍子に合わせて手のひらを打ちつつ、余韻にひたっておりましたが。。。

ありました。アンコール。
想定外のアンコールで、どこまでやれるかわかりませんがとの前置きから、その場で演者達の打ち合わせが始まり、アンコールショーへ。
見ているわたしとしましては、前提をすべてとっぱらって単純に目の前のショーを楽しむ事ができて、後の祭りなお楽しみはそれはそれで満喫。
演者も”やっちゃえ”的ないたずら心発揮して、ちょっと楽しげに見えたのは、見ているわたしが身構えるでなく楽しげに見ていたからだけだったのでしょうか。

というわけで、またまた飽きずに京都へ。
移動舞台車でおこなわれていた、告知のフライヤーでは「キャバレーナイト」、ガイドブックでは「「日輪の翼」バーレスク」と題したパフォーマンスイベントを見てまいりました。

バーレスクとは、Wikipediaによると”シェイクスピア等先行する文芸作品をパロディ化した茶番であり、一般的には、性的な笑い(艶笑、軽い下ネタの類い)のコントや、完全なヌードに至らない女性のお色気を強調した踊りを含めたショー... ”なのだとか。

そして、日輪の翼は中上健次の小説なんですが、これはあえて読んでません。
が、ここ最近中上健次の他の作品をたて続けに読んでいたりするのだけど、読んだ記憶は無いけれど、”これ前に読んでるな。。。”なんていうのが出てきておりますから、どうなんでしょう。

さて、本編の感想は冒頭書いたあたりから察してくださいって事で、伝える言葉を持っていない自分が悲しくなるばかりなのですが、あえてけちをつけるとするならば、冒頭からのポールダンスパートが綺麗すぎたかなぁ。

と、そんな感じで酔い夢の中へと旅立ちます。


2015年4月24日 (金)

そんな時代もあったんだな。

大阪・京橋駅から大阪城方面に向かうと、途中、大阪ビジネスパークと呼ばれる高層ビルが建ち並ぶ一帯を通り過ぎる。

うすぼんやりとした記憶をたどると、わたしが子供の頃その辺りはフェンスで囲われた更地が広がっており、年寄りたちが言うのには、砲兵工廠のあったその辺りは空襲の時の爆撃が特にひどく、掘れば不発弾が次々と出てきて開発の手がつけられずにいるのだとか聞かされていたような気がする。

実際のところ、上に書いたような理由でそうだったのかは定かでは無いけれど、随分と長い間そこに戦争の傷跡としての更地が広がっていたりしたんだな。

すっかり開発が進み、高層ビル群と化した様子からは、かつての更地が広がっていた頃の様子をうかがい知るのは難しい。

大阪城公園の中を歩いていると、かつてそこに軍事施設が広がっていた痕跡を見かけるのだけれど、それらから感じるのは経年劣化による寂しさのようなものがあるばかりで、戦争の傷としての痛みは感じられないんだな。わたしには。

そんな事とは関係なく辺りを見まわしてみると、すっかり今の様子に慣れきって何の違和感も無く受け入れてしまっているのだけれど、振り返ると昔はああだったななんて思い出してみたり、変わったんだと言う事はわかっているのだけれど、変わる以前の状態を知っているはずなのに、すっかり記憶から欠落してしまっていて思い出せなかったり。

なににしても、時の流れの中で街の模様は変化し続け、それに連れて人の模様もすっかり変わってしまって、過去は現在に塗りつぶされて、その現在もいずれは過去になって。。。

なんて事を考えつつ、ここ最近のわたくしの一番の関心事であるPARASOPHIAの京都市美術館会場の無料エリアにあるカフェ・リトルボーイなんて作品に目を向けてみるわけですが、以前にも少し触れたように、そこは黒板のような素材の壁や家具に、訪れた人達が思い思いの言葉や絵などをチョークで書き残して行くもので、どんどん上書きされて様子が変わっていくのだけれど、ふとそれがうつろい変わっていく街や人の様子に重なって見えたりもするのです。

書かれているものを一つ一つ追いかけていると、そこには色々な人達の思いがあふれていて楽しげではあるのだけれど、変わっていくその部屋の中でも変わる事の無い箇所があるのです。
フレームに収められた写真と、秒針だけしか動かない同じ時間をさし続ける時計。
お楽しみにばかり目を奪われてないで、たまには思い出してねなんて訴えているかのよう。

この部屋が指し示しているそればかりで無く、目先に追われてなおざりにしてしまっている大切な事が色々あるななんて思わされたりするのです。

2015年4月21日 (火)

ここまで来たら、最後は見届けたいかなぁ。

無知。
とは怖いものなのです。
でも、無敵でもあるんだな。

ここ最近なんだかんだと動き詰めだったからか、先週中頃から本格的に風邪をひいてしまったようで、ちょっとしんどい感じの日々を過ごしておりました。ゆえに、土曜日の予定をパスして回復に充てた事もあって、翌日にはほぼ全快。まぁ、お楽しみを前にして寝込んでいる場合ではなかったりするのですけれど。

そんなわけで、飽きもせず昨日の日曜日も京都通い。

京都市美術館の中、ある作品の前でのほほんと過ごしておりますと、老紳士風味な方が現れて、作品の説明を求めて声をかけてこられたのです。わたしも興味のある好きな作品の一つですから、嬉々として聞かれるままにお答えしていたわけですが、しばらく話し込んでいるうちに、その方がなにがしかの作家さんらしい事がわかってきまして、その時お名前もお聞きしてメモしたのですけれど、名前を聞いてもいまいちピンと来ない。

そんな事があった後、移動で館内を歩いておりますと、先ほどの老紳士がPARASOPHIAの運営スタッフと親しげに話しているのを見かけましたので、業務終了後にそのスタッフに、老紳士の正体を聞いてみました。

すると、PLAYの代表されてる方ですよとの返事。そこで、わたしがぽかんと固まってしまったものですから、PLAYが分からないのかなとスタッフさんが始めてくれたわけなんですが。。。

たしかによく知っているとは言い難い。が、知らないわけでもない。
パフォーマンスになるのでしょうか。わたくしが生まれるずっと前から、ハプニング的な活動をされていたグループなのだけれど、なにかしでかす度毎にメンバーが集められるような感じのようなので、グループというのも違うのかもしれませんが、とにかくよくわかんないけれど凄い人なんです。と言っても、集まりとしての活動のようなものは記録などでほのかに知っては居ても、個々にまで目が向いて居なかったので名前を聞いてもピンと来る事も無かったと。そんなわけですが。。。いやぁ。。。

普通のお客さんにまじって、思いもかけない人が現れたりしてしまうので、ちょっとうかつな事も語れないと怖くなってみたりもいたしますが、それもそれで面白い。

にしても、そうだと分かっていれば聞きたい事が山ほどあるのになんて思ってみたりいたしますが、分かったら分かったで固まって言葉が出なくなってかもななんて思ってみたりもするのです。

そんな、あわあわな先週末だったのでした。
無知って怖いねぇ。


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